書きたいのなら書けばいい

雑記

個人的に、Twitter界隈でよく見られる「需要ある?」っていう探りが大嫌いです。理由は「書きたいなら書けばいいやん」としか思えないからです。

需要ある?って書き込んじゃう時点ですでに「書きたいけど反応なかったら寂しいから予防線張っちゃう」ってのがミエミエなんですよ。寒いですね。他にそういうつもりないけど需要ある?って書き込むことあるのかな?自分の理解の外なので想像しきれないので、もしあったらコッソリ教えて下さい。

Twitterやブログやnoteに書きたいこと書き込むのに、なんで人様の反応を気にする必要があるのでしょうか。あ、いや「これ書いたらマズイな」ってことは反応気にしたほうがいいですが、自分が書きたい・良いと思っていることで気にする必要はあるのでしょうか?承認欲求という概念自体は理解していますよ、自分にあんまりないだけで。ですが書き込まないことには何の承認も得られませんよ?「需要ある?」って伺っている時点で書きたい気持ち溢れちゃってるよ?なんで書かないの?反応探ってる間に書けちゃうでしょ?

確かにこれがビジネス的なもの、または多大な時間やコストを要するものであれば需要予測してから行うのは当然のことでしょうね。需要なければやらないほうがいいです。ですがすでに自分が書きたいと思っているものを、書き込むことにお金のかからないTwitterやnote、ブログに書き込むことに対していちいち需要ある?とか探りを入れる理由はなんなのでしょうか。

このブログは人の目を気にしていないのですが、「これ書いてもアクセス数も反応も増えないだろうなー」とか思うことはあります、それでも書きますが。逆にそう思っていたのに思いもよらぬ形で好意的な反応をもらったりアクセス数が伸びることがあります。ふとしたきっかけで古い記事へのアクセスが増えることもあります。人の反応なんてそんなもんですよ。はじめっからウケ狙いって考えものですが、他人が求めているものなんて自分では考えられないところにあったりするものです。

なので書かないことには承認欲求も満たされない。好意的な反応なんて後からついてくるので書かないことには何も生まれない。これが事前に予防線を張る「需要ある?」が苦手な理由です。需要あってもなくても書けばいい、書きたいのであれば。それで反応がなかったとしても何も寒くはありません。その経験が糧になり、いずれバズる時が来るかもしれません。その時反応が薄かったとしても何も恥ずかしいことはありません。

それとも「需要ある」⇒「あります!」で承認欲求満たされるのでしょうか?ちょっと私には理解できないコミュニケーションです。

◯◯RTで□□する!というのも場合によりけり

「◯◯RTあったら□□します!」というのも場合によりけりですね。ネタでやって楽しんでいる分には特になんとも思わないんですよ。ただ、この場合も「◯◯RTあったら□□の話を書きます!」ってのは、需要ある?と同じで「あーどうせ書きたいんやろなハイハイ」ですね。そこまで書きたい気持ちを溢れさせておきながら書かない理由がわかりません。

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